情報リテラシー論と私

情報リテラシー論といろんな 私 。なりきり講義レポート。講師の横田秀珠氏こと、よこたんのブログはこちらですhttps://yokotashurin.com/

#6「好きな子がいたら好きって言った方がいいですよ」

キュレーションとは、情報を取捨選択してまとめること、だ。

今日の授業は「キュレーションが必要な訳」という題。まあ、必要だよな、この世の中。情報ありすぎるから。

 

資料によると日本人の半数は、製品・サービスについて購入前によく検討をしないようだ。よ、先進国。自分の場合は、購入する前に必ず似ているものを比較したり、他人のレビューをみたりしてよく検討する。しかしそれは、似ているもの同士を丸裸な状態で比べているわけではない。「比較してみた!」という記事やブログ、そしてレビュー欄で支持されているレビューなどを見ているのだ。つまり、キュレーションされたものが自分の判断を手助けしていたのだな、と授業を終えた今思う。

 

さて、物の購入時に感じるストレスについて、資料には3つが上がっている。その中でも、情報の錯綜により良いものが見極められないという「情報選択ストレス」は、物の購入時に限らず、絶えず情報に触れている私たちが常に感じていることと同じだろう。

ひとたびインターネットに繋がると、そこではさまざまな意見を持つ大勢の人が情報を提供している。その中で「自分にとってベストな情報」だけ、を得るのは困難だ。だからこそのキュレーションなのだ。

 

今、様々なSNSやサイトで「自分にとってベストな情報」を厳選するためのサービスが取り入れられている。あらまぁ、なんて便利。よこたんのように世界の流れを知りたい人や、広い守備範囲を持つ研究者などだったら、幅広く情報を得る必要があるだろう。しかし、一般ピーポーにはそんな必要はない。

ある人は、忙しい毎日の中の趣味に捧ぐ貴重な時間として、Twitterを見ているかもしれない。ある人は自分好みのものに溺れる幸福を効率よく味わうために、「あなたへのおすすめ」だけを見ているのかもしれない。恐らく大抵の人は、広い知識を得ることで豊かな人生を歩むより、自分が好きなものに多く触れることで心を充電して、毎日を豊かに過ごしているのだと思う。その方が、効率よく幸せになれるし、辛く嫌な気分になることは滅多にない。知識が偏りすぎて世間が全くわからないのは問題だが、心を満たせる場所をつくることで救える人がいるのも事実だから、キュレーションのサービスは人々にとってかなり必要なものだと思う。大げさ過ぎたか?まあいいか。

 

他人のSNS投稿や動画などをまとめ、拡散するだけのサービスやTV番組がある。本人たちは内容をつくっているわけではないが、広告などにより収入がはいる。この仕組み、おかしいようにも思えるが、やってることはソムリエと同じだ。

「これがあなたに合うワインです」と言われればお客は飲みたくなるし、「これはみんなが笑える動画です」と言われれば視聴者はその番組を見たくなるだろう。ソムリエのおっしゃることは、なんだか妙に説得力がある。先生は「上手にまとめることに価値がある」とおっしゃった。その通りだ。ネタになるものを時間をかけてインターネットの海から探し、「これ、おもしろいでしょ?」「これ、いいでしょ?」とつい興味をそそられるようにそれぞれのネタをうまーく構成する。その技と努力は称賛すべきだ。とは言え本人たちは、宝物探しを楽しみ、いい宝を見つけられる自分を誇りに思っているから、全く苦ではないかもしれないが。

 

ところで、過去に検証なしの適当な記事をたくさん書いたキュレーションサイトが、叩かれて非公開となったらしい。先生は「これでは言論の自由ではない」という捉え方もしていて、確かになと、はっとさせられた。デタラメなことを言っている人なんて、世の中にいくらでもいる。でもそれが企業や組織になると、叩かれやすい。多分ただ単に被害者の数が関係しているのではないだろうか。

 

リアルな人間関係の中でも、なんどもデタラメや嘘をつかれたら怒るし、謝ってほしいと思う。それで儲けをもらっていたら、尚更だ。そしてその後は信頼をなくす。友好的な関係になるのは難しい。デタラメを拡散する人が個人なのか、団体でたくさんいるかの違いで、友達に謝ればことが収まるのか、記者会見を開かないとダメかが決まるのかもしれない。

 

キュレーションと関係ない話になってしまった。よし、寝るとしますか。

ロボホンは今回もかわいかった。よかったね。